
当山のご紹介
信光山髙源院は、今を去ること約500年ほど前の永正十七年(西暦1520年)に、(その当時の)米沢村大字武田に小田原北条方の戦国武将であった武田信光が僧侶・石宙元介を招いて建立したお寺です。ご本尊は曹洞宗の寺院としては比較的に珍しい『延命地蔵菩薩』座像です。
建立当時は、どうやら大変に広大な寺域と大伽藍を備えた真言宗の寺院であったという説もあるようですが、ほとんどの記録が無くなってしまっている現在では調査確認する手掛かりもありません。
天正十八年(1590年)に起きた「民家迄不残唯一時に灰燼と為す」と記されている甚大な被害となった大火と、明治十四年(1881年)の二度の大火とで全ての伽藍を焼失してしまい、当然のことながら髙源院の歴史に関する記録も大部分が燃えてしまいました。
そのため歴代の住職の記録に関しても、かなり曖昧で年代的な矛盾が多く見られます。だから、そもそも最初は真言宗の寺院であった髙源院が、いつ、どのような経緯で曹洞宗の寺院となったのかもよく判らないのです。
明治時代には日本全国で吹き荒れた「廃仏毀釈」の猛威で、おそらく髙源院も寺檀関係による布施収入が途絶え、伽藍の維持もままならない(住職がいない)ような不遇の時代を余儀なくされたことと思われます。
たぶん大正年間から昭和にかけて、地元の檀信徒の皆さんの努力により、何とかやっと小さいながらも曹洞宗寺院としての体裁を整えることが出来るようになりました。
昭和から平成、そして令和へと時代が移り変わりました。現住職(第二十六世 鎌田貞隆)の私は平成十七年(2005年)に高源院を受け継いで以来、とにかく髙源院の復興を目指して抜本的な改革に取り組んでいます。
特に、曹洞宗寺院としての「髙源院の基本財産」を創り上げることと、次世代を託すことの出来る優れた僧侶の養成(教育)を大きな目標として掲げ、常に高源院と檀信徒の皆さんとの調和を図りながら精進努力を重ねています。
私が考える、新しい時代の寺院のイメージは
「1.明るく / 2.楽しく / 3.いつでも誰でも気兼ねなく / 4.みんなが集まって / 5.仏教に触れて学べる」お寺です。
香取郡神崎町武田という田んぼと丘に囲まれた環境の中に佇む「本当に小さなお寺」ですが、髙源院に来るだけで「なんだか気持ちが楽になって元気になったな!」と感じられるお寺を目指します。
どうぞ皆さん、いつでも遠慮無くお訪ねください。山門の直ぐそばでは、とても可愛らしい『楽生き地蔵さん』があなたをお迎えしています。お待ちしています。
合掌
